石の町・真鶴の石造物

真鶴町にはたくさんの石造物がありますが、そのうち産業遺産・文化遺産に関わる10個の石造物にQRコード付きのプレートを設置しました。

QRコードを読み取ると、ホームページの該当説明ページが表示されます。

与謝野

01 ふるさとの碑

ふるさとの碑

【設置プレート】

 真鶴について顕彰する碑。貴船神社、真鶴岬、相模湾や石材採掘・運搬等、真鶴を代表する史跡、名勝、産業について記されている。

 

設置場所:真鶴駅構内(待合所付近)

設置時期:昭和46年(1971年)6月

発起人:真鶴町長 尾森東次(昭和39年(1964年)10月~昭和51年(1976年)10月在任) 他

管理者:真鶴町

 

設置場所はGoogleMapページ参照

02 源頼朝 船出の浜 案内板

源頼朝船出の浜案内板

【碑文】

石橋山の合戦 治承4年(1180年)に敗れた源頼朝は、箱根山中や鵐窟(しとどのいわや)などに難をのがれ、謠坂を経てこの海岸から房州(千葉県)に向かって船出し、虎口を脱したと伝えられています。

船出に協力した村民たちの鮫追船(さめおいぶね)2そうについては税が免除されたといわれ、小田原北条氏によるその確認の文書が伝えられています。

海岸東の崖の下には、塩谷温博士の文による源頼朝開帆記念の碑があります。

 

設置場所:岩漁港入口(町道1号線側)

設置・管理者:真鶴町

備考:昭和63年(1988年)頃、石を使用してのサインを検討されていたその1つとして設置されたもの。

 

設置場所はGoogleMapページ参照

03 源頼朝 開帆處(かいはんしょ)の碑

源頼朝開帆處の碑

【設置プレート】

 石橋山の合戦に敗れた源頼朝が、再起を期して、この浜から房州に向けて船出したとされる。それを記念した石碑。

 

設置場所:岩漁港入口(岩漁港側)

設置時期:昭和12年(1937年)1月

管理者:真鶴町

裏書き:石寄付 遠藤興之吉、岩村保勝会(7名)、朝倉常吉、平井大海、二見榮三郎、鈴木銀次郎、鈴木豊之助、露木虎治、富田吾兵衛

備考:以前は大浦海岸の奥に設置されていたが、それを現在の場所に移設したもので、設置場所が町管理地であるため、町で管理している。

 

設置場所はGoogleMapページ参照

04 築港記念の碑

築港記念の碑

【設置プレート】

 岩地区における漁業の要港として、真鶴港の築港と併せて同時期に築港された。それを記念した石碑。

 

設置場所:岩漁業協同組合先道路右側

設置時期:昭和9年(1934年)4月

設置者:真鶴町外2ケ村組合長 松本赳

管理者:真鶴町

備考:「05真鶴漁港の碑」と同時期に設置

 

設置場所はGoogleMapページ参照

05 真鶴漁港の碑

真鶴漁港の碑

【設置プレート】

石材運搬の積み出し及び漁業の要港として、昭和9年(1934年)に築港された。それを記念した石碑。

 

設置場所:真鶴消防団第1分団付近

設置時期:昭和9年(1934年)4月1日

設置者:真鶴町外2ケ村組合長 松本赳

管理者:真鶴町

備考:「04築港記念の碑」と同時期に設置

 

設置場所はGoogleMapページ参照

06 しとどの窟(いわや)の案内板

しとどの窟の案内板

【碑文】

源頼朝が、治承4年8月(1180年)石橋山の戦いに敗れたとき、この地にあった岩屋に一時かくれて難をのがれました。その時、大庭景親の追手があやしんで中をのぞくと「シトト」といわれる鳥が急に舞い出たので、人影はないものと立ち去った、ということから鵐窟といわれ、かつては高さ2メートル深さ10メートル以上の大きさがありました。江戸時代に陰山道人による頼朝画像と銘文のある石碑が残っています(注)。

 

(注)頼朝画像と銘文のある石碑(原碑)は、町民センターの入口自動扉脇あります。また、複製が鵐窟前の広場(品川台場礎石の前)に設置されています。

 

設置場所:しとどの窟地内

設置・管理者:真鶴町

備考:各地にこのような石の案内板が多く有り、昭和63年(1988年)頃町産業観光課で、サインとして設置。

 

設置場所はGoogleMapページ参照

07 与謝野晶子の歌碑

与謝野晶子の歌碑

【碑文】

わが立てる 真鶴崎が二つにす 相模の海と伊豆の白波

【設置プレート】

 歌人の与謝野晶子が、当地を訪れた際に、ここから岬を見下ろしたときに詠んだ歌。三ツ石が、相模湾を二つに分けるような海の情景を詠みこんだ。

 

設置場所:ケープ真鶴裏庭三ツ石海岸下り口付近

設置時期:昭和27年(1952年)11月

設置・管理者:真鶴町

備考:昭和27年(1952年)7月23日、半島のお林が真鶴町に払下げされ、当時これを機に真鶴半島を観光の拠点として利用したいと考え、半島三つ石に因んだ与謝野晶子の歌碑を観光協会を中心に設置したもの。

 

設置場所はGoogleMapページ参照

08 幕末の台場の堤築(ていちく)

幕末の台場の堤築

【碑文】

江戸時代の末期、外国船が日本の近海にも現れるようになると、幕府は「外国船打ち払い令」を出して海防を厳重にした。小田原藩でも、小田原海岸に3ヶ所の外、大磯の照ヶ崎海岸と真鶴岬のこの場所の計5ヶ所に台場(砲台)を築きました。この台場は、たて約36メートル、よこ約30メートルの規模をもっていましたが、その台座の石材が、わずかに当時のおもかげをつたえています。

 

設置場所:ケープ真鶴裏庭三ツ石海岸下り口付近

設置時期:昭和63年(1988年)頃

設置・管理者:真鶴町

 

設置場所はGoogleMapページ参照

09 胎中楠右衛門(たいなかくすえもん)の石像

胎中楠右衛門の石像

【設置プレート】

 昭和初期に活躍した政治家。衆議院議員を4期務めた。真鶴港の築港に尽力し、真鶴の海と山に関わる生活基盤が整えられたのは、彼の功績によるところが大きい。

 

設置場所:石の広場内

設置時期:平成元年(1989年)

管理者:真鶴町

備考:町内の何れかに設置されていたものを、石の広場に移設したもので、土地管理者である真鶴町が管理。

 

設置場所はGoogleMapページ参照

10 町有林記念の碑

町有林記念の碑

【碑文(要約)】

江戸時代、明暦の大火により木材が大量に必要になったことから、幕命により小田原藩に割り当てられた15万本の松苗が萱原だった真鶴半島に植林され、古くから真鶴人に「お林」と呼ばれ、沿岸漁業の魚附保安林として親しみ育成されてきました。

当初は村有でしたが、その後小田原城主の所領するところとなりました。また、明治維新後の1800年代後半には皇室「御料林」となりました。

太平洋戦争の終結とともに「御料林」のあり方も大きく変化し、昭和22年(1947年)に国有林となりました。

その後、全町民挙げての国有林払い下げ運動が功を奏し、昭和27年(1952年)に待望の払い下げが実現しました。

この記念碑は先人たちの努力に敬意を示すとともに、町永遠の財産として永く子々孫々に伝えるために昭和30年(1955年)に建立されました。

 

設置場所:お林遊歩道入り口

設置時期:昭和30年(1955年)4月1日

設置者:真鶴町長 橋本徳治(昭和23年(1948年)11月~昭和39年(1964年)10月在任)

管理者:真鶴町

 

設置場所はGoogleMapページ参照

●この事業の一部は、神奈川県川崎競馬組合の競馬事業収益金を活用して実施しています。

11 坪内逍遥の句碑

坪内逍遥歌碑

【碑文】

初日の出 なぜ三つ石に 注連はらぬ

【設置プレート】 

 昭和7年8月24日「真鶴案内出版届」によると、【真鶴岬より突出する七丁、天下の絶勝三つ石(笠島)は山の字に屹立して、寄せてくる波濤を摧いて壮観言語に絶す、坪内逍遥先生先年三つ石の巌相を賞して、「初日の出なぜ三つ石に注連はらぬ」の句を作りて、三つ石に注連をはらしむ。】とされており、この句により昭和初期に注連縄を張ったと考えられている。
 その後、真鶴町観光協会によって昭和52年11月16日~12月20日に注連縄が張り替えられ、さらに令和3年12月4日、同協会により三ツ石の注連縄の注連飾りが張替えられた。それに合わせ、石の広場にあった本石碑は、三ツ石を眺望できるケープ真鶴へと移設された。

 

設置場所:ケープ真鶴(令和3年12月4日、石の広場より移設)

設置時期:不明

設置・管理者:真鶴町

備考:株式会社 鈴木組創立30周年記念に石の広場の整備を行い、その時に設置されたものと思われる。その後、石の広場は真鶴町の管理となった。

 

設置場所はGoogleMapページ参照

お問い合わせ先

産業観光課産業振興係

住所:〒259-0202 神奈川県足柄下郡真鶴町岩244番地の1
電話:0465-68-1131
ファックス:0465-68-5119

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更新日:2022年09月08日